⑴ 求一篇日本電影觀後感 日語150字的 不勝感激 !!急急急
久しぶりに映畫を見た、
木村拓哉主演の映畫《HERO》だった。
名前が公平という検察官の仕事にめぐって広げられた物語だが、
田舎から大學にも入ることなく、
明晰な頭脳の正義感にあふれる青年検察官がとても魅力のある人物だった。
登場人物もまたみんなぞれぞれ個性が強くて、印象的だ。
社會にある犯罪や不正そして腐敗にたいする検察官たちの緩まない戦いに感動され、
主演人物たちのユーモアなセンスにも感心させられた。
いい映畫だった。
205 words
⑵ 日本電影《告白》觀後感
是很久以前看的這部片子,本來看這個名字覺得是一個很浪漫的文藝片,結果看完之後鴨梨山大。最令我記憶深刻的是那個變態男主把唯一懂自己的那個女孩給殺了,然後那個老師嘲笑他。還有那個新來的班主任帶班長天天到另一個孩子家家訪也是那個女老師的陰謀。。。總之看完之後感觸最深的就是什麼樣的朋友都可以有,但有一種人人絕不可以接近---變態者!
⑶ 急!!!寫日本電影《烏魯魯的森林物語》【觀後感】---400字,跪謝
《烏魯魯的森林物語》觀後感
《烏魯魯的森林物語》是一部溫情家庭的日本電影,他不僅展示了北海道的優美風光,更展現了人與動物的和諧之美!《烏》主要講述了單親家庭的兄妹昂、滴和一隻離開母親的狼崽的羈絆!
《烏》啟示我們要與大自然和平共處!正如老獵戶說的一樣:動植物的毀滅也好生存也好都是自然決定的,人類能做的就只是遠遠地愛著自然而已!的確,如果我們繼續破壞和開發自然,最後,那些可愛的動物們就只能存在我們的心中!
也啟示我們,動物與人一樣,都是需要家庭,都是需要感情 。因為昂和滴的媽媽要做心臟手術,他們不得不前往北海道,投奔五年前和母親離婚的父親大慈。由於父親忙於動物的工作,疏忽和兒女的溝通,兄妹倆仍感覺孤零零,想回到母親身邊!當滴第一次見到孤零零的烏魯魯時,感同身受的滴怎麼也放不下它,彷彿在烏魯魯的身上找到了自己的影子!最後,她們決定將烏魯魯送回到它的母親身邊!天真可愛的滴,都能明白如果將烏魯魯送到動物園保護,烏魯魯就永遠的離開了媽媽,動物也是有親情的!最後,本片在小狼崽回到媽媽身邊,昂和滴的母親來到北海道,一家人在美麗的薰衣草花海團聚而圓滿結束!
⑷ 求一篇日本電影觀後感(要日文的,並且電影最好有名點)
我來給你一篇吧,希望能幫到你,不要吝嗇分哦~~~
《東京塔》觀後感
[映畫]『東京タワー』感想
昨日観に行ってきました『東京タワー』。かなり出足は好調みたいで、仆の地元から車で1時間くらいの某地方都市(シネコンが飽和狀態)のレイトショーでも、3割くらいのお客さんの入りでした(とか書くと、東京の人には「ガラガラじゃん!」って言われそうだけど)。
それで、いきなり結論から書いてしまいますが、すごく良かったですよ、この映畫。観る前までは、正直「もう『東京タワー』見飽きたな……それに、キャストもオカンが樹木希林さんって、絵的にどうよ、「フニフニフニフニ(林檎殺人事件)の人だもんなあ」とか思ってたんですけどね。
この映畫、小說や大泉洋主演の単発ドラマや速水もこみち主演の「月9」のようには泣けません。仆がこの映畫に最も期待していたことって、松たか子をスクリーンで観られることと松尾スズキさんの腳本だったのですが、松尾さんは本當に素晴らしい腳本家だなあ、と思いました。絕妙の寸止め感。今までのドラマでは、「視聴者をここで泣かせてやろう」という製作側の意図が透けまくりの安っぽい「お涙頂戴シーン」満載だったのですが、この映畫版では、「ここでもう一押しすれば、『泣かせられる』のに……」というシーンで、惜しげもなく場面が切り替わります。オカンの手紙が登場しても、その內容が作中で読まれることはありません(例外はありますが)。今までの「オカン」は、「とにかくマー君を大事にする子煩悩な母親」として描かれていたのだけれど、この映畫版でのオカンは、「母親であるのと同時に、ひとりの女性でもあって、自分がこうして『母親役』を演じ続けなければならない現実に戸惑っている」というのがものすごく伝わってくるんですよね。「人間」って、本當はこういうものだと仆も思うのです。內田也哉子さんって、本木雅弘の奧さん、というイメージしかなかったので、オカン役としては不安だったのですけど、この映畫のなかでは、いちばん印象に殘った役者さんでした。まあ、「ボク」が大學生になったときに、いきなり「オカン」が內田也哉子さんから樹木希林さんに変わったときには、「オカンは何の呪いをかけられたんだ……」と驚いてしまいましたけど。さすがにあれは唐突すぎないかね。親子だから、似てるんだけどさ、確かに。
仆は松尾スズキさんって、本當は『東京タワー』みたいな濕度100%の話って、苦手だし嫌いなんじゃないかな、と思います。そして、だからこそこの映畫は、「泣きたい人を泣かせるためだけの映畫」にならずに済んだのかもしれません。松尾さんは、このドラマを「泣かせる話」「素晴らしい親子愛の話」として過剰に描くことをせず、「どこにでもある、人と人とのすれ違いと結びつきの物語」として描いていて、それは仆にとってはすごく「身近なもの」だったんですよね。原作のダイジェスト版みたいになっていて、短いシーンが次々と入れ替わるし、「泣きたい人」にとっては素っ気ない話のように思えるかもしれないけれど、そう感じられるのは、人生ってやつが素っ気ないものだからなのですよ、たぶん。
正直、「ボク、オトン、オカン」以外の登場人物の大部分に関しては、かなり說明不足で「原作を読んでいない人には『なんでこの人がここにいるの?そもそも、この人誰?』と思われるのではないかな」というシーンがあったり、ラストにちょっと違和感があったりしたのですが、最近の日本映畫は、本當に元気だなあ、と感じさせてくれる映畫でした。個人的には、食べまくっている松たか子にちょっとウケましたよ。「SMAP×SMAP」でも、女優とは思えない「ガン食い」してたからなあ……
そうそう、仆は1ヵ所だけ涙が出て止まらなくなったシーンがありました。でも、その1回で十分満足。
しかし、ここまで「あっさり風味」の演出というのはある意味すごいですよね。あの濃厚トンコツラーメンのような『東京タワー』をここまで淡白な作品にしてしまった映畫のスタッフは勇気があったと思いますよ。オカンが死んでしまうシーンも直接的には描かれなかったし。仆としては、リリーさんが醫者に対して食ってかかるようなシーンが無かったのにはホッとしたのと、普通の患者さんからみると「病院」というのはこんなふうに見えるのだなあ、と感じたのが印象に殘っています。
ただ、「ミズエ」っていうキャラクターは、この作品にとって何だったんだろうなあ、という疑問は殘ってしまっていて、『en-taxi』の映畫『東京タワー特集』では、松たか子が、ラストシーンでボクとミズエとオカン(の位牌)が東京タワーの展望台に上るシーンに対して「私がここに居ていいんでしょうか?」と疑問を呈したというエピソードが紹介されていました。仆も観ていて、「ミズエって、そんな『特別な存在』だったの?」と思ったんですよねやっぱり。この映畫での描き方だったら「リリーさんの大勢の女友達のうちのひとり」にしか見えないというか、少なくとも「ボク」と「オカン」と一緒に東京タワーに上る資格がある存在には見えないんですよ。「オカンはそれを望んでいた」のかもしれないけれども。まあ、「オカンの死をきっかけに二人はよりを戻して結婚した」みたいなオチよりははるかにマシだったとしても。
ちなみに、仆が泣いてしまったのは、オカンのお通夜のときに不躾な編集者から催促の電話がかかってきて、一度は「こんなときに仕事なんかできるか!」と電話を切った「ボク」が、「お前が仕事をしているのを見ているときが、いちばん気分が良いよ」というオカンの言葉を思い出し「最高に笑えるバカエッセイ」を一生懸命に書きはじめるシーンでした。仆の母親もなかなか見舞いにも來ない息子(=仆)に対して「お前が元気で仕事をしていてくれれば、それがいちばん安心だよ」と言っていたのを思い出してしまって。
今の仆にできる「親孝行」っていうのは、たぶん、仆自身が自分に誇りを持って生き抜いていくことだよな、とか考えていたら、涙が止まらなくなりました。
⑸ 電影《日本沉沒》觀後感,700字,
據8月30日《大河報》報道,9月14日,投資20億日元、日本電影史上投資最大的電影《日本沉沒》開始在中國上映。這是1973年同名舊作的翻拍版,改編自著名作家小松左京20多年前的同名災難小說。故事的梗概是:幾位頭腦敏銳、有正義感的海岸地質學家發現日本列島將要沉沒的徵兆。消息傳出,全國嘩然,有的質疑,有的嘲笑。但越來越多的跡象無情地證明了他們的推斷,內閣首相不得不向全國人民宣布:日本處於一片惶恐和混亂之中。在接連不斷的地震、海嘯和火山噴發中,人們紛紛轉移財產,想方設法逃往國外,內閣策劃向世界各地輸出移民,又引起世界各國的強烈反響和不同態度、對策。小說最後以日本列島終於沉沒在萬頃波濤中而告終。
在我們看來,這部旨在喚醒或鞏固日本人憂患、預警意識的電影也太危言聳聽了,半個多世紀來生活在和平和富裕生活中的日本民眾能接受這樣的電影嗎?官方不加以干涉嗎?回答是肯定的。去過日本書店的人都能發現,這類書籍俯拾皆是,如《日本危機》、《日本面臨挑戰》、《日本的悲劇》、《日本即將崩潰》、《日本向何處去》等等。正如日本一家報紙在解釋這種現象時說,它准確地抓住了日本人的敏感神經。日本是個島國,四周是海洋,國家就像一頁小舟,隨時都有傾覆的可能。加上地震、火山頻發,資源缺乏,人口密度大,這使他們總是缺乏安全感,這種感受很自然地孕育了日本民族根深蒂固的世界少見的憂患、預警意識。他們凡事總愛向前看,從最壞的方面去考慮,每隔一段時間,就要用叫喊「狼來了」的辦法刺激公眾的的這種意識。《日本沉沒》就是這種背景下的產物。
日本人的憂患、預警意識使日本民族受益極大。只舉一個例子。20年多前的小說《日本沉沒》中有這樣一個情節:日本官房長官在回答記者提問時說:「不管怎樣,日本經濟不同海外聯系,就無法維持了。整個日本社會已經到了如果不飛向世界、不飛向海外,不到外面尋找為人類做些貢獻的新工作,就寸步難行的時候了。如果再陷在國內事務中不能自拔,那就只會自己害自己了。」(見《曖昧的日本人》一書)作者在書中還做出這樣的構想:日本壟斷資本應該向發展中國家滲透,實行遷廠和對外投資,同美國、歐洲共同體競爭。」對照這些文字,看看日本本土出現的「企業空洞化」現象,想想目前遍布全世界的日本企業和馳名全球的眾多名牌,想想他們與美歐持續不斷的貿易摩擦和競爭勢頭,就不言而喻了!
我很自然地想到這樣一個問題:我國也是一個自然災害頻發的地方,但中國人為何從來不寫這樣的書?我想,這也與地理因素有關。中國不存在被海洋吞沒的危險,國土巨大,即使常常發生地震、暴風、洪災、旱災等自然災害,但畢竟迴旋餘地大。和日本相比,這是我們的優勢,但也因此培育了我們的短處——自古盲目自大、滿足現狀、不喜歡往前看、熱衷崇古、缺少憂患或預警意識等心理。這種心理目前仍然在延續著。比如,如果現在某個中國作家也寫一個類似的電影劇本,預示不久的將來我們的某個重要城市將因地震、海嘯、火山、沙漠化、沙塵暴、洪水等輪番襲擊而徹底毀滅,這書能出版嗎?恐怕很玄,首先會被一批「聰明」人用「杞人憂天」的古訓加以嘲笑和譴責,接著會因「危言聳聽、製造恐慌、不利於穩定」等理由而不許出版,至於拍成可以造成更大傳播效應的電影電視劇,那更是不可想像的事情了。
對重大自然災難的預警,無非是將細微的、常人難以發現的災難預兆進行披露、放大甚至誇張,吸引公眾和媒體將關注的目光投向可能的災難,促使學者、科學研究人員對其進行專業的考察和評估,提出避免災難發生及將災難的危害減到最小程度的種種方案;經反復討論論證,在全國上下左右達成一定共識的情況下,政府或立法部門出台必要的行政措施或法律法規,確保各類方案的落實。簡單地說,它和天氣預報的功能沒有差別,雖然有時會是虛驚一場,但不進行天氣預報將更加可怕。因此,我們不應一味害怕公眾經不起重大突發預警的打擊,要明白,公眾的這種脆弱正是源於他們對預警的長期陌生,如果能夠經常性地對公眾進行預警教育和演練,他們就會像日本公眾一樣,不但不會產生恐慌心理,反而會在災難面前表現得沉著和冷靜。
⑹ 看日本侵略中國的電影的觀後感
《南京》觀後感
舉世聞名的南京大屠殺,是漫漫五千年的中華歷史的一個悲傷的旋渦,是泱泱960萬平方公里的的無奈的痛苦,更是汩汩流動華人血液的每一個中國人都不能忘記的恥辱史。但是對於外國人而言,或者,30萬對他們而言,只是一個看起來還是有點分量的數字;或者,那一段歷史就是別的國家曾經的一個故事,也僅僅是一個故事而已;又或者,在震撼的同時,卻在翻開另一頁書的時候忘記了剛才的一瞬間的震撼……但是,這卻是一部西方人講述的中國的故事,而且是某一個國家一直都想否認想抹殺的故事。為什麼他還在堅持,堅持,並一直堅持到了現在,讓這個我們並不陌生的故事呈現到了我們的面前?我想說,是良知!我們甚至可以說,整個影片其實就是良知在跳躍,跨越國界、超越語言,走進每一個具有良知的人們的心目中!
有人評論說,這部由西方人拍攝的記錄片,更加客觀,公正的闡述了這場人類史上最殘忍的行為。雖然影片著重的描寫了當時在南京的外國人怎麼樣保護了20多萬人的性命。當然正因為是西方人拍的電影才有更多的西方觀眾走進電影院,才能使西方人真正的多了解些南京大屠殺的真相。不可否認,正因為西方人的介入,也許才讓這段真實的歷史能夠讓某個極盡「遺忘」本領的國家來承認這段歷史。影片描述的是在南京的外國人用自己的良知怎麼樣保護了20多萬人的性命,影片本身展現的就是良知的行為,而影片拍攝本身也是良知的驅動,這種良知來自於對歷史的尊重,對人權的尊重,對真實的尊重,對內心真實的聲音的尊重。這就是他們,作為外國人,幾乎可以說是與整個事件並無多少直接的聯系的外國人,為什麼能拿起手中的攝象機並再現了那段讓中國人至今肝腸寸斷的歷史。
影片很多內容在中國是第一次播放,看了很令人震驚。他再現了日軍當時在南京市的令人發指的殘暴行為。但是影片里也真實地陳述了影片的立場:講述這些,並非是為了掀起反日情緒,而是表達反戰的主題。這就是良知的力量!作為一部良知凝成的影片,並不是為了促成人們形成一些負面的情緒,並引起戰爭的情緒的再現,而是試圖喚起人們心中對和平的嚮往,對美好的期許。一如影片中說的:我們憎恨的不是人,而是政策,是政策促成了這一切!
當看到西方人能主動喚起這段真實的歷史的時候,我對人類的良知產生信心的時候,卻對某一個國家的某一些人的「良知」缺不由得產生了深深的懷疑。如果說日軍當時在南京的殘暴行為是當時日軍的政策的縱容,同時也是日本右翼分子的指使,使得當年的日軍行為在盲目與本性中犯下了滔天罪行的,我們覺得我們可以或許原諒這些人,畢竟當年的人和事在作古,歷史在向前發展,但是,為什麼影片中采訪那些日本當年的老兵,沒有一個說出或者表露出悔恨的樣子,有的竟然對殺人談的很自然,可後悔的是當時天氣炎熱,進城的時候忘記多喝些水。還有個老兵對輪奸中國婦女的情景談的眉飛色舞,恬不知恥的詳細的講自己也參與的滅絕人性的這種惡行。為什麼?為什麼?這些人的良知又到了那裡去了呢?
⑺ 電影東京審判200字觀後感
東京審判觀後感
東京審判,一九四六年五月三日到一九四八年十一月十二日,長達兩年多的國際審判。而今年,這件歷史事件再一次的引發了熱潮,就是因為這部電影《東京審判》。而在本周五,我們學校組織全體師生一起去人民會堂觀看《東京審判》。
《東京審判》講述了第二次世界大戰結束後,盟國組成遠東國際軍事法庭,對日本戰犯進行審判的那段歷史。東京審判從1946年5月開庭,持續到1948年11月宣判終結,歷時兩年零七個月,最終把東條英機等7名戰犯送上絞刑架。
這部戲的很多鏡頭都讓我難以忘懷。印象最深的應該就是開頭,是因為法官的座次問題,梅汝敖堅持一定要按日本簽定投降書的順序排列法官的座次,因為這關乎中國的尊嚴,這是一個中國人的堅持,這是一個中國法官的堅持,錚錚鐵骨,義正詞嚴,最終,法庭長只能對梅汝敖說:you win……。還有一段對話讓我印象很深:
「中國會因為有你這樣的鬥士而自豪!」
「我不是鬥士,我是法官,中國的法官」
這短短的兩句話讓我震撼,它表達了一個中國人的自豪和自信,讓我為中國有這樣的一個法官而感動。